『才能の科学』という本を読んでいると、プラシーボ効果について説明されている章に遭遇した。プラシーボ効果とは、偽物の薬を本物と思い込んで飲むと、本物と同様の効果が得られるという説である。この本では、プラシーボ効果は薬に限らないとし、たとえばスポーツでも、「絶対に勝つ」と思い込むことで、勝利を引き寄せることができると述べている。
問題は、その代表例としてたびたび引き合いに出されるのが、タイガー・ウッズだということだ。
ゴルフに興味がない人でもその名は知っているように、タイガー・ウッズのパフォーマンスは超一流といっていい。そこは問題ない。問題なのは、タイガーが私生活上では何度もトラブルを起こしていることだ。飲酒運転により警察に捕まったりもしたが、特に有名なのは、タイガーがセックス依存症を抱えていることだろう。この依存症のため、タイガーは頭では駄目だとわかっていても複数の女性と関係を持ち続け、最愛の妻と離婚する羽目になった。
セックス依存症に陥る原因は、主にストレスだ。セックスに限らず、依存症は過度なストレスが原因でなることが多い。タイガーのストレスはどこから来ていたのか?
この本によれば、タイガーは子供の頃から、父親によってポジティブなマインドセットを訓練されていたという。ポジティブな楽観論が生み出すプラシーボ効果によって、最高のパフォーマンスを維持してきたというわけだ。だが、それによって、自分自身の内なる悲鳴を無視してきたのではないだろうか。そうしてストレスが溜まっていき、セックス依存症になってしまったという仮説は、かなり可能性が高い。
つまり、ポジティブ論によるプラシーボ効果は、パフォーマンスと引き換えに精神にダメージを与える。考えてみれば当然だ。「負けるかもしれない」という恐怖を無理やり押し込めているのだから。
たとえ試合に勝ったとしても、それで人生が破壊される結果になるのであれば意味がない。しかもこの本では、後の章で「優勝したときの達成感は、選手が想像しているよりも大したことない」という事例が紹介されているのだから、なおさらだ。
では、ポジティブ論が有害になるのだとすれば、人は困難に対して、どのような心持ちで立ち向かえばいいのか?
それは、ポジティブの反対、ネガティブになることだ。
自分が直面する困難に対して、失敗する可能性を想像しておく。失敗による精神的にダメージも想定しておく。勝利の期待を徹底的に潰しておく。その先に待っているのは、「そもそもこんなことに大きな意味はない」というあきらめの境地だ。その境地に達したとき、あなたは揺るがない精神を手に入れるだろう。
以下は蛇足。
この本では序盤の章で「1万時間の法則」を紹介し、絶対視している。これは問題だと感じた。翻訳者もそう思ったのか、あとがきで注釈を入れている。
1万時間の法則とは、トップクラスに到達するためには「意味のある練習」を1万時間以上行う必要があるとする論だ。この論が問題なのは、そもそも元になった研究では、トップアスリートたちの合計練習時間を平均化してみたら1万時間だったというもので、絶対に1万時間が必要というわけではない。ところがこの法則を紹介する論者は、平均を最低条件と言い換えて紹介するため、大きな誤解をもたらしている。練習が必要という点だけは正しいが、どれだけの時間を費やせばいいのかについては、当然ながら個人差がある。
本の筆者は、何かと「科学的」という点をたびたび主張しているが、平均と最低条件を取り違えるのは科学的な態度としては落第点だろう。ほかにも「才能など存在しない」と主張したいがあまり、前のめりになっていると感じる部分が多かった。よって本書は、科学に裏打ちされているものではなく、筆者のエッセイだと思って読むのが正解だ。