「本当の正しさ」という言葉の危険性

作家の森博嗣が「インプットは割りが悪い」という記事を書いた。一見すると節約を奨励する良い記事のように思えるが、その内容には注意が必要だ。人間行為学(一般的にはオーストリア学派の経済学のことだが、より正確性を期すためにこう呼んでいる)の観点から、それを説明しよう。

記事内で森はインプットとアウトプットを比較し、「アウトプットは本当の楽しさを生み出す」と述べている。しかし、それは森の恣意的な選好にすぎない。人間行為学の観点から言えば、「価値」とは究極的にはすべて主観であり、「個人ごとの楽しさ」はあっても「本当の楽しさ」というものはない。「本当の楽しさ」というワードは、あたかも「客観的に正しい楽しさ」が存在するかのような誤解を生じさせる。確かに、娯楽にかかるコストという点ではアウトプットはインプットよりも安上がりだ。しかし、それは「アウトプット娯楽はインプット娯楽よりも上等である」ということを意味しない。人間の行為をありのまま受けれれば、多くの人々がアウトプットよりもインプットを選好するのはただの事実である。

また、「大企業を育てるゲームに参加している」という解釈も偏見がある。人々は商品やサービスがもたらす効用にまず興味があるのであって、企業が育つかどうかといったことに関心はないか、あったとしても二次的なものである。

人間行為学では、「節約」とは資本を蓄積し、未来の安定性を高めるための行為であるとされている。ここで重要なのは、節約は「現在の楽しみを未来に延期する」という意味であり、楽しみそのものを断念しろと言っているわけではないし、「本当の楽しさ」と「本当ではない楽しさ」があると言っているわけでもない。インプットを選好する人間は、素直にインプットを楽しめばいいのである。未来の訪れるであろう楽しみと比較して、どれだけ現在を犠牲にするかは検討しなければならないが、それはただの経済計算である。

もし森の言うことを真に受け、「アウトプットにこそ本当の楽しさがあるはずだ」と言いながら自身の主観的な価値観に反した行為を続ければ、その者の精神は自己矛盾を積み重ね、いずれ破滅を迎えるだろう。